絵本と年齢をあれこれ考える 番外編①

磯崎園子●絵本ナビ編集長 


絵本は実体験を越える? 越えない?


 なんだか眠くなってくると記憶のどこかに浮かんでくるのは、緑の壁に囲まれたあの広い部屋。赤いふかふかのカーペットにストライプのカーテン。大きな窓にはきれいな星。飾られた額にはどんな絵が描いてあったかな。そこは静かであたたかく、私はベッドの枕に頭をうずめる。そして月の光に照らされた部屋をぐるりと見回し、ひとつひとつに声をかけていく。「おやすみ とけいさん」「おやすみ にんぎょうのいえ」「おやすみ……」。そうしているうちに、いつの間にか目を閉じて。あれ、そんな経験あったかな。自分の部屋でもなく、憧れていたあの子の家の部屋とも違う。絵本『おやすみなさい おつきさま』(マーガレット・ワイズ・ブラウン・作 クレメント・ハード・絵 瀬田 貞二・訳 評論社①)に登場する風景だ。そして、私は小さい頃にその絵本を読んでいない。手にしたのは大人になってから。それでも、思い浮かべると落ち着くのがあの「緑の部屋」なのだ。確かにそこで布団にもぐり、幸福感に包まれながら小さな声でおやすみなさいとつぶやく、という体験をしている。

 それほど自分の記憶に強く印象を残していくこの絵本。もし、実際に小さい頃から読み親しんできたならば、それはもう本当に「自分の部屋」と言ってもいいのではないだろうか。どこに何があるかはすぐに言うことができるし、その部屋が夜中に向けてどんな変化をしていくのかもわかるし、空気感だってすぐに思い出せる。絵本の中の記憶が、実体験を越えている。そんなことだってあり得るのだという気がしてくる。


『おやすみなさい
『おやすみなさい おつきさま』
マーガレット・ワイズ・ブラウン・作 クレメント・ハード・絵 瀬田 貞二・訳 評論社


どちらがリアル?

 写実的な描写と幻想的な場面の組み合わせで独特な世界観を楽しませてくれる絵本作家デイヴィッド・ウィーズナーが、身近な生活のワンシーンを描いている絵本が『ぼくに まかせて!』(江國 香織・訳 BL出版)だ。主人公の少年が草野球の仲間に入れてもらい、外野をまかされる。すると、バッターの打ったボールが空高く上がり、少年のところに飛んでくる。「ぼくにとれるだろうか」。緊張するその瞬間、少年を描く場面が一変する。立たねばならない場所に木の根が生え、キャッチしなくてはいけない自分の体はみるみる小さくなり、味方である仲間たちが視界をふさぐ。何もかもが自分の邪魔をし、その時間は永遠に感じられる。でも……。言葉のないこの絵本、写実的に描かれるそれぞれの光景は、見ているだけで臨場感が伝わってくる。そして、少しでも同じ感覚を味わったことがある人ならば、すぐに共感してしまうだろう。「こんな体験、したことがある!」。現実では数秒にも満たないこの出来事。絵本に描かれているのは空想の世界。思い出す時にはどちらがリアルに感じるだろうか。

 開いた瞬間に既視感を覚える絵本もある。『夏 なつ』(五味 太郎・作 絵本館)に登場するのは、シンプルで象徴的な景色の中でなりひびく音。「ちりちり ちりちり」「かーん かーん」「じゅん じゅん じゅん じゅん」。実際に意識したことはなかったとしても、聞いた途端に記憶がよみがえり、あっという間に自分の中の記憶と重なっていく。それは確かに夏の音だ。作者の少年の頃の原体験をテーマにしたという絵本『つかまえた』(田島 征三・作 偕成社②)には、川で見つけた大きな魚をやっとの思いでつかまえる場面がある。水の中でもがく少年の手の中で、その魚はぐりぐりとあばれる。迫力のあるそのページを見ていると、体験したことがなくとも、その感覚を再現することができる。自分の中の小さな記憶をつなぎ合わせていきながら、まるで自分がそこにいるかのように気持ちが重なり興奮してしまう。絵本作家が描く場面には、そういう力があるのだ。


『つかまえた』"
『つかまえた』
田島 征三・作 偕成社


 真夜中に家族4人で歩いて山頂を目指す様子を描くのは、絵本『夜をあるく』(マリー・ドルレアン・作 よしい かずみ・絵 BL出版③)。その暗さ、静けさ、におい、明るさの変化を絵本の中の家族と一緒に体験しているうちに、不思議と自分まで感覚が研ぎ澄まされていくような気持ちになる。息遣いを意識し、目を凝らす。ぽきりと枯れ枝の折れる音に反応し、さわさわと揺れる木々の葉っぱの存在を感じる。それはもう特別な体験。頭の上に広がる星空に、険しい道。そして、やがて訪れる日の出の時間。その光をいっぱいに浴びながら、きっと、この先もずっと思い出す景色になるのだろうと実感する。


『夜をあるく』"
『夜をあるく』
マリー・ドルレアン・作 よしい かずみ・絵 BL出版


 実際に動き、見て、聞いて、触れる。それが何にも代えがたい体験であるのは言うまでもない。それでもやはり、絵本を通すからこそ見えてくる景色、感じることのできる経験、というのもあるのではないか。

琴線に触れる

『海のアトリエ』(堀川 理万子・作 偕成社)に登場するのは絵描きさん。彼女は主人公の少女を子ども扱いしない。素敵なアトリエ、見たことのないメニューが並ぶ食卓、外国の画集や写真集であふれる本棚。少し背伸びをしているような気持ちになりながらも、一緒に過ごす時間は不思議と心地よく、少女の心は解放されていく。そしていつしかこの風景を「忘れたくない」と強く思い、胸にしっかりと焼き付けようとする。この絵本に登場する少女だけが経験した特別な日々。それなのにどうしてだろう。読んでいて、突如涙が流れてくる瞬間がある。アトリエのベッドに一人で眠る夜だろうか、それとも散歩に出かけて眺めた海の青さだろうか。どこかで琴線に触れているのだ。

『こんとあき』(林 明子・作 福音館書店)を読んでいる時もそうだ。おばあちゃんの家に行くために、ぬいぐるみのこんと一緒に電車に乗ったあき。それまでは可愛らしい空想のお話として読んでいたはずなのに、心の中が不安と緊張の気持ちでいっぱいになっている。あきの表情なのか、こんの健気な姿なのか、あるいは知らない大人たちに囲まれていると感じた時なのか。それとも、途方もなく広がる砂丘の景色だろうか。大人のつもりで読んでいたはずなのに、いつの間にか自分の感情が大きく揺さぶられている。そして涙があふれてしまう。

 こんな風に、読んでいる中でどこかが琴線に触れる。それは、絵本を読んだからこそ味わえる「絵本の中だけの経験」だ。

読む前と読んだ後で

 ところが今度は、絵本の方が現実の世界に影響を及ぼしてくることだってある。『しらすどん』(最勝寺 朋子・作・絵 岩崎書店)の中でりょうくんは、気づけば自分がしらすとなって海を泳いでいる。普段何気なく食べていたしらすの立場というのを、身をもって経験してしまうのだ。その衝撃は、絵本を読んでいるこちら側の生活にまで影響を及ぼしてくる。今後しらすどんを食べるたびに、きっとしらすと目が合ってしまうだろう。『おばけリンゴ』(ヤーノシュ・作 矢川 澄子・訳 福音館書店)では、ワルターのたった一つの小さな願いがとんでもない事態を引き起こしていく。どうしてこんな展開になっていくのか。その願いは叶った方が良かったのか、叶わなかった方が良かったのか。読んでいる私たちの心を散々に振り回してくれるのである。

『へいわとせんそう』(たにかわ しゅんたろう・文 Noritake・絵 ブロンズ新社④)では、左右のページに、シンプルだけど、これ以上ないくらいわかりやすい二つの言葉と絵が並ぶ。「へいわのボク」「せんそうのボク」、「へいわのワタシ」「せんそうのワタシ」、「へいわのぎょうれつ」「せんそうのぎょうれつ」。どのページからも、一目でその違いが見えてくる。それは、行き来が可能な世界ではない。「せんそう」が終われば戻る世界でもない。何かがなくなった、だけでは終わらない。読む前と読んだ後では、あきらかに何かがちがって見えてくる。


『へいわとせんそう』"
『へいわとせんそう』
たにかわ しゅんたろう・文 Noritake・絵 ブロンズ新社


 もちろん、すべてを実際の体験のように受け入れていたら大変なことになってしまう。絵本を読むのは、楽しい時間。驚いたり、笑ったりしても、そのほとんどは、通り過ぎていくものだろう。けれど、その中でいくつかでも記憶に残っていく場面があるとすれば。心に変化をもたらしてくれるきっかけとなってくれれば。それはかけがえのない出会いだったのだと言えるだろう。

 でも。こんな風に話をややこしく考えてしまうのは、やっぱり大人だけ。ふと見れば、子どもたちはそんな境界線を軽々と越えて遊んでいる。『みち』(さいとう しのぶ・作・絵 ひさかたチャイルド)の中で、ひとり遊びをするはるちゃんの見ている世界のなんと豊かなこと!地面に線を引いているだけで、公園がみるみる不思議でへんてこりんで楽しい世界に変わっていってしまうのだ。

 さて、次回は本当に最終回。番外編の2回目。「絵本の存在が希望であること」について考えてみるつもりです。お楽しみに!


★いそざき・そのこ 絵本情報サイト「絵本ナビ」の編集長として、おすすめ絵本の紹介、絵本ナビコンテンツページの企画制作などを行うほか、各種メディアで「絵本」「親子」をキーワードとした情報を発信。著書に『ママの心に寄りそう絵本たち』(自由国民社)。

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