こどもの本

私の新刊
『絵本・名人伝』 小林 豊

(月刊「こどもの本」2018年9月号より)
小林 豊さん

読者の手にとられんことを願う

 今回の『絵本・名人伝』は、昭和一七年、対米戦争の緊迫した時局に珠玉の短編を発表した中島敦の原作です。

 彼を語る友人たちの言葉があります。

トンといるとオレの目の前がパッと開けて明るくなる。将棋をさしても、麻雀をやっても川柳の話をしても、トンと一緒だと明朗になる」と、また「小柄で色白の氏が頭にすっぽり被ったマントの蔭から分厚い眼鏡を光らせて、ゴム裏の草履でぴたぴたと本郷通りを歩く姿をよく見かけた。寡黙で人中に出るのを好まず、自分だけの世界にとじこもり、人を容れない孤独な側面と好悪の差別がはっきりしていた」と人物像を語っています。

 明治四二年東京四谷に生れた彼はその短い生涯のなか、埼玉、奈良、浜松、朝鮮、満州、横浜、小笠原、中国、南洋パラオと転居と放浪、そしてやがて彼の命をうばう喘息の発作をくり返しながら彼独特の歴史の知識に裏打ちされた「視座」を作り上げていきます。

 そこには漢学者であった祖父や伯父たちの影響で骨の髄まで染みついた漢学・・の素養からの視点と、戦前近代知識人が持つどこか幼くも腐敗臭の全く無い感受性とが交錯し、その二点の差異がなんとも魅力的な彼の文章を培養するのです。今回作品を読み直しながら漢文調の硬質な歯切れのよい文章に酔い、その豊富な語彙についていくのが浅学のボクにとって息切れする程刺激的な経験となりました。

 勢い込んで絵本の構想を練ったのです。舞台は紀元前、日本で言えば弥生時代の大むかし。所は中国。春秋戦国時代の邯鄲の都。今では想像もつかない説話や考古学的領域の世界です。妄想を膨らませ、気分よく遊んでいるうちは楽しかったのです。ところがやっと仕上げた原稿を渡してしまった今、何もない机の上には不安な沈黙だけが残っていて─原作への思いをのべる程に、この名作に泥をぬってしまったのではないか、恐れが湧き上がってくるのです。

 もうこの辺でよそう。願わくは、絵本が手に取られんことを。

(こばやし・ゆたか)●既刊に『せかいいちうつくしいぼくの村』『えほん北緯36度線』『淀川ものがたりお船がきた日』など。

『絵本・名人伝』"
あすなろ書房
『絵本・名人伝』
中島 敦・原作
小林 豊・文と絵
本体1、400円